【今回の歌】

道因法師(82番)『千載集』恋3・817

思ひわびさても命はあるものを (う)きに堪へぬは涙なりけり

あなたにとって恋愛とは何でしょうか。 楽しく華やかな今この時? 相手を思いやるやさしさ? 悩みばかりの辛いこと? 過ぎ去りし日の花火? 和歌というものが、男女の恋心を伝えるために使われたからでしょうか、百人一首にはたくさんの恋の歌が盛り込まれています。今回の歌の作者は老境に入ったお坊さんなんですが、歌の内容はつれない相手への辛い恋。それは遠い日の花火なのかもしれません。


●現代語訳

つれない人のことを思い嘆きながら、絶えてしまうかと思った命はまだあるというのに、辛さに絶えきれずに流れてくるのは涙だったよ。


●ことば

【思ひわび】
「思いわぶ」というのは、つれない相手に思い悩む気持ちを表す心情語で、恋歌によく使われます。

【さても】
「そうであっても」の意味です。

【命はあるものを】
「命は」の「は」は、他のものと区別する係助詞。「ものを」は逆接の接続助詞で、次の「涙」に対して「命は死なずに残っているのに」というような意味を表します。

【憂きに】
「憂き」は形容詞「憂し」の連体形で、想いがかなわない憂鬱の意味。「に」は格助詞です。

【堪へぬは】
「堪へ」は「堪ふ」の未然形で「こらえる」という意味です。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形、「は」は前の「命は」と同じく他と区別する係助詞で、全体として「こらえられないのは」という意味になります。

【涙なりけり】
「なり」は断定の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆を表す終助詞で「涙だったんだなあ」というような意味を表します。


●作者

道因法師(どういんほうし。1090~1182年)

藤原敦家(あついえ)。従五位・左馬助(さまのすけ)でしたが、80歳を過ぎてから出家しました。晩年は比叡山に住みましたが、非常に長命で元気で、90歳を過ぎてから耳が遠くなっても歌会に出て講評を熱心に聞いていたそうです。本当に歌好きだったからか、死後、千載集に多くの歌が掲載されたのを喜び、選者・藤原俊成の夢に出てきてお礼を言ったという逸話が残っています。


●鑑賞

こんなに恋しているのに、どうしてあの人への想いは通じないのだろうか。つれないあの人をひたすら思い続けて、もう考える気力も失ってしまった。それほど疲れ果ててしまったけど、命はなくならずにまだ堪えているというのに、堪えきれずに落ちてくるのは涙だったんだなあ。

百人一首には堪える恋を歌った歌がいくつもありますが、これもそのうちの代表的なものといえるでしょう。耐え難い恋をしのぶのは女の人ばかりというわけではありません。道因法師は老人で、しかも男ですが、若き頃の辛かった恋の思い出を歌にしたのでしょうか。まあ当時の恋の歌は、本当かなあと思うくらい喜び悲しみを誇張した歌も多いのですけど、これも激烈なくらいの辛さがひしひしと伝わってくる歌です。ただしこの歌、最初の「思ひわび」が恋歌の常套句なので恋の辛さを歌ったものだと解釈しがちですが、作者の年齢などを考えあわせ、実は「過ぎ去った人生そのものへの哀悼」を思う歌だとする解釈もあるのです。生きながらえる物体である「命」と、堪えきれない心の象徴である「涙」とを対比させたこの歌、一見恋を歌いながら老境に入った人生を述懐する、深い歌だといえるかもしれません。

ところでこれほど憂鬱な歌を作った道因法師ですが、本当に歌が好きだったようで、死後千載集に歌をたくさん載せてもらったお礼をしに藤原俊成の夢枕に立ったとか、ちょっとおちゃめなエピソードも残されています。千載集に入っている彼の歌には、他に
八橋(やつはし)の 辺(わた)りに 今日も泊まるかな  ここに住むべき 身かは(三河)と思えば
などがあります。三河の八橋というのは、現在の愛知県知立(ちりゅう)市にある、逢妻(あいづま)川の南の場所です。八橋は古くからの歌枕で、在原業平を主人公にした歌物語「伊勢物語」でも業平が立ち寄ったり安藤広重が東海道五十三次の一枚として描いたりもしています。市内には歴史民俗資料館があり、またかきつばたで有名な無量寿寺などもあります。また2年に1度、巨大な山車が出てその上で文楽が演じられる「知立まつり」(国指定重要無形民俗文化財)なども行われたりもし、見所の多い古都だといえるでしょう。訪れる場合は、私鉄の名鉄名古屋本線知立駅で下車します。