【今回の歌】

崇徳院(77番)『詞花集』恋・228

瀬を早(はや)岩にせかるる滝川(たきがは) われても末(すゑ)逢はむとぞ思ふ

2月4日は立春でした。時間の過ぎゆく速さにはいつも驚かされます。暦の上ではもう春なんですね。それにしても1月下旬から寒さが特に厳しくなり、依然として雪が降ったり凍るような風が吹いたりしている毎日です。山に掛かる雲も、輪郭がぼやけ、綿菓子のような形のをよく見かけるようになりました。輪郭があいまいなのは、雪を降らせる雲の特徴。山頂部は激しい雪が降っていることでしょう。今は全国的にインフルエンザが大流行しているようですし、とても春に近づいた様子がない、というのが正直なところ。しかし気がつくと日の暮れがすこしづつ遅くなっています。そういうところに、かすかな春の気配を感じる、といったところでしょうか。

長い不況が続いており、海外ではテロや戦争の噂まであります。今の時期は誰しもに厳しい「冬」にもたとえられるでしょうが、長い冬は暖かい春への準備だとも言えるでしょう。月の半ばごろからは、梅の便りも届くでしょうし。暖かい春を目指して準備を怠りなく過ごしたいものです。最終回は、鳥羽天皇の第一皇子・崇徳院が詠んだ再会を待つ一首です。


●現代語訳

川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が2つに分かれる。しかしまた1つになるように、愛しいあの人と今は分かれても、いつかはきっと再会しようと思っている。


●ことば

【瀬を早(はや)み】
「瀬」は川の浅いところのことです。「~を+形容詞の語幹+み」と続くと、「~が・形容詞・なので」と理由を表す言葉になります。ここでは「川の瀬の流れが速いので」という意味です。

【岩にせかるる 滝川(たきがは)の】
「せかる」は「堰き止められる」という意味の動詞「せく」の未然形で、後に受動態の助動詞「る」が付きます。「滝川」は、急流とか激流という意味です。上の句全体が序詞で、下の句の「われても」に繋がります。

【われても末(すゑ)に】
「われ」は動詞「わる」の連用形で、「水の流れが2つに分かれる」という意味と「男女が別れる」という意味を掛けています。「ても」は逆接の仮定で、「たとえ~したとしても」という意味ですので「2つに分かれてたとしても後々には」という意味になります。

【逢はむとぞ思ふ】
「水がまたひとつに合う」のと「別れた男女が再会する」の2つの意味を掛けています。「きっと逢いたいと思っている」という意味です。


●作者

崇徳院(すとくいん。1119~1164)

鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に5歳で天皇の位を譲り受けました。18年の在位の後に近衛天皇に譲位し、鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれました。鳥羽上皇の死後、後白河天皇との間で、後の天皇にどちらの皇子を立てるかで対立。戦となります(保元の乱)が破れ、讃岐(現在の香川県)に流され、45歳で没しました。在位中に藤原顕輔に『詞花和歌集』を編纂させています。


●鑑賞

この歌は、崇徳院が1150年に藤原俊成(しゅんぜい。定家の父)に命じて編纂させた「久安百首」に載せられた一首です。山の中を激しく流れる川の水が、岩に当たって堰き止められ、岩の両側から2つに分かれて流れ落ち、再びひとつにまとまる。その様子を離ればなれになった恋人への想いに重ねて詠う激しい一首です。「障害を乗り越えても必ず逢おう」という気持ちが込められており、激しく燃えさかる情熱と、強烈な決意のようなものが感じられます。

もちろんこの歌は恋の歌です。しかし歌の作者・崇徳院は、18年間位についたものの、当時の鳥羽上皇に強引に譲位させられます。さらに息子・重仁親王を天皇にと願ったものの、やはり上皇の考えで後白河天皇に位を奪われます。そして上皇の死後、後白河天皇と、どちらの皇子を天皇にするかで争って破れたのが「保元の乱」でした。後世には、崇徳院の不遇な生涯とこの歌を結びつけ、強引に譲位させられた無念の想いが込められている、と解釈する研究者もいます。それほど激しい想いを感じさせる歌でもあります。崇徳院は乱に破れて讃岐国松山(現在の香川県坂出市)に流された後、後白河天皇を呪い、ヒゲや爪を伸び放題に伸ばして恐ろしい姿になりました。調べに訪れた朝廷の使いは「生きながら天狗と化した」と報告し、また今昔物語では西行が讃岐を訪れた際に怨霊となって現れます。

さほどの激しい人が詠んだ歌で、「瀬」や「岩」といった強烈な語句も見えます。しかし、戦乱の世を知らない我々は、離ればなれになった恋人との再会を誓う歌として詠むのがロマンチックでしょう。拉致問題で北朝鮮から帰還した人々も、一時は今生の別れを覚悟したかもしれません。しかし、生きてさえいれば、また喜ばしい再会がめぐってくることもあるでしょう。この一首は、そういう希望を詠んだ歌ではないでしょうか。崇徳上皇が流された讃岐の地は、現在の香川県坂出市。瀬戸内海を望む海辺の街で、本州と四国を結ぶ、瀬戸大橋の基点です。坂出市の崇徳上皇ゆかりの史跡には、流された上皇が暮らした「雲井御所」(林田町)や、遺体が葬られた白峯山などがあります。最近は、コシがあって柔らかく、しかも100円ほどで食べられる「讃岐うどん」がブームのようです。古の別離に想いをはせながら、グルメ旅行に訪れられるのも一興でしょう。

当メールマガジンは、おかげさまで本号で100号を迎え、百人一首すべてを紹介し終えました。ここで一応終刊号とさせていただきます。最後までご愛読いただいた約1100人の読者の皆様、ありがとうございました。崇徳院のように怨霊にはならないでしょうが、一抹の寂しさはございます。しかし、分かれてまたひとつに合する滝川のように、またいつの機会かお目にかかることを期待し、皆様が健やかに日々を過ごされることを希求しております。