【今回の歌】

三条院(68番)『後拾遺集』雑1・860

心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

人間誰しも、時には「こんな世の中生きていたくない!」なんて思うときがあるかもしれません。凶悪犯罪のはびこる昨今、暗い気分にさせられますが、昔の政治の世界も複雑だったようで、中でもすべての権力を手に入れ、栄耀栄華を誇った藤原道長に圧迫された三条院の気持ちはいかばかりだったでしょうか。今回は、ちょっと色合いの変わった悲しみの歌をご紹介します。


●現代語訳

心ならずも、このはかない現世で生きながらえていたならば、きっと恋しく思い出されるに違いない、この夜更けの月が。


●ことば

【心にもあらで】
「心ならずも」とか「自分の本意ではなく」などという意味です。「に」は断定の助動詞「なり」の連体形、「で」は打消の接続助詞です。「心にも あらでうき世に ながらへば」とあるので、本心では早くこの世を去りたいと思っていることを表しています。

【うき世】
「浮世」、「現世」のことで、「つらいこの世の中で」というような意味になっています。

【ながらへば】
「生き長らえているならば」という仮定の意味を表しています。下二段動詞「ながらふ」の未然形に接続助詞「ば」が付き、「これから長く生きているとすれば」という未来のことを想像する内容になっています。

【恋しかるべき】
「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形で、「夜半の月」にかかります。

【夜半(よは)の月かな】
「夜半(よは)」は夜中や夜更けのことで、「かな」は詠嘆の終助詞です。全体では「この夜更けの月のことがなあ」という意味になります。


●作者

三条院(さんじょういん。976~1017年)

冷泉(れいぜい)天皇の第2皇子・居貞(いやさだ)親王のこと。986年に皇太子となり、25年も天皇の位を待ち、1011年に即位しましたが、病弱で在位6年で次の天皇に位を譲り、翌年に死去しました。短い在位でしたが、その間に2回も内裏が火事になり、しかも藤原道長が前の天皇の一条院と自分の娘・彰子(しょうし)との間にできた皇子を即位させようと、退位をせまったため、その生涯は苦難の連続でした。


●鑑賞

本当は死んでしまいたいくらいだけど、心ならずも生きながらえてしまったなら、今夜宮中から眺めているこの夜ふけの月が、きっとさぞかし懐かしく思い出されてくることだろうなあ。

生きていることの辛さを歌う一首ですが、この歌にはちょっと複雑な背景があります。作者紹介にもありますように、三条院は後に「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」と歌うほど絶大な権力を誇った藤原道長に、目を患ったことを理由に退位を迫られていました。といっても本当の理由は病気ではなく、先帝一条天皇と自分の娘との間にできた子供を次の天皇に即位させ、道長が摂政として政治権力を一手に握りたかったからです。そこで、疲れ果てた三条院はついに退位を決意します。その時に詠まれたのが、この歌なのです。権力闘争で疲れ果てた三条院には月の明かりはどのように映ったのでしょうか。この歌が収録されている「後拾遺集」の詞書には、「例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしける頃、月の明かりけるを御覧じて」とあります。「例ならず」は病気で、という意味ですので「病気で退位を決意された時、明るく輝く月を見て」ということになるでしょうか。まさに劇的な瞬間に詠まれた歌といえるでしょう。

百人一首の選者、藤原定家はどうしてこのような歌を選んだのかはわかりません。しかし定家が仕え、「新古今集」の編纂を命じた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府打倒を企てて失敗し(承久の乱)、隠岐に流され、その地で没しました。定家の心には、政争に敗れて悲運の死を遂げた後鳥羽上皇と三条院が、重なって感じられたのかもしれません。後鳥羽上皇が流された隠岐は、島根県沖に浮かぶ島々で、米子からJR境港駅で下車、境港からフェリーで島まで渡ります。後鳥羽上皇の亡骸が祀られている「後鳥羽上皇御火葬塚」は、海士港から車で10分の距離にあり、近くの隠岐神社などとともに観光名所になっています。隠岐にはリゾート施設も数多くありますので史跡をめぐる傍ら、マリンスポーツなども楽しまれてはいかがでしょうか。