【今回の歌】

大納言公任(55番)『千載集』雑上・1035

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

名作というのは、いつまでも語り継がれ、歌い継がれるものです。それを作った本人が亡くなってしまっても、その作品と心は世の人々の間で生き続けます。百人一首も800年間生き続けた名作群ですが、今回はそれを象徴するような作品を紹介します。


●現代語訳

滝の流れる水音は、聞こえなくなってからもうずいぶんになるけれども、その名声だけは流れ伝わって、今でも人々の口から聞こえていることだよ。


●ことば

【滝の音は】
滝の流れ落ちる水音は

【絶えて久しくなりぬれど】
「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」の已然形で、「聞こえなくなって長くたつけれど」という意味を表しています。

【名こそ】
「名」は名声や評判のこと。「こそ」は強調の係助詞です。

【流れて】
流れ伝わって、という意味を表します。「流れ」は滝の縁語です。

【なほ聞こえけれ】
「なほ」は「それでもやはり」の意味の副詞です。「けれ」は、前の「こそ」を結ぶ言葉で「けり」の已然形となります。


●作者

大納言公任(だいなごんきんとう。=藤原公任:ふじわらのきんとう。966~1041)

関白太政大臣頼忠の子供で、四条大納言と呼ばれました。非常に博学多才で、作文・和歌・管絃をよくする「三船(さんせん)」の才を兼ね備えていたといわれます。「和漢朗詠集」の編者です。


●鑑賞

「祇園精舎の鐘の声 盛者必衰の理を表す」などと平家物語の冒頭にあるように、栄枯盛衰は人の世の常。人はやがて死んでいくものですが、世の中には不滅のものがあります。滅びの美学を語る平家物語そのものが依然、我々の知るところであるように、名品というものは作者の死後も、作者に代わって生き続けるものです。そんな名作を作るのが、はかない幻のような人生を生きる人間の夢でしょうか。

滝は枯れて、その音はもう聞こえないけれど、その名声だけは今だに人々の間で語り継がれているのだよ。この歌は滝になぞらえて、作者が文学者たる自らの思いを語ったものでしょうか。あまたの先人のように、人々の間で伝説となるような名作・名歌を世に残したい。それが私の志なのだと、この歌は語っているようです。歌は技巧をこらした、というより滝に仮託して心情を表した、比較的ストレートなものだといえるでしょう。だからより一層、我々の心に響くのでしょうね。

さて、拾遺集の詞書には「大覚寺に人あまたまかりたりけるに、古き滝を詠み侍りける」とあります。この歌の舞台は、京都の嵐山にある大覚寺。JR山陰本線嵯峨駅から降りて北に歩くと、大沢池のほとりに現れます。この寺はかつての嵯峨上皇の離宮でした。公任の時代にはすでに滝は枯れており、昔日をしのんで歌ったものです。しかし、この歌が有名になったことでこの枯れ滝は「名古曽(なこそ)の滝」と呼ばれるようになりました。作品に描かれたことで、本当に今の時代まで伝わる滝となったわけです。この歌を詠んだ大納言公任は、1000年後インターネットを伝わって、この歌が人々に読まれることになるなど、想像できなかったでしょう。まさに、名こそ流れてなほ聞こえけれ、というわけです。