【今回の歌】

紀貫之(35番)『古今集』春・42

人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の(か)ににほひける

4月です。新入学、新入社おめでとうございます。きっと希望に胸をふくらませていることでしょう。この春のぽかぽか陽気のように、いいこといっぱい、の今年になればいいですね。学校や会社に慣れるにつれ、面白いことや逆につらいことも出てくるでしょうが、「笑門来福(笑う門には福来る)」といいます。みんな最初は慣れないものですので、元気に笑い飛ばしていきましょう。

さて、春の歌で花といったら「桜」を真っ先に思い出しそうですが、実は今の時期には梅もまだまだ美しく咲きほころんでいます。今回は平安時代の大文豪が訪れた宿でのエピソードです。


●現代語訳

あなたは、さてどうでしょうね。他人の心は分からないけれど、昔なじみのこの里では、梅の花だけがかつてと同じいい香りをただよわせていますよ。


●ことば

【人は】
贈答歌ですので、「人」は直接には相手のことを指していますが、後の「ふるさと」と対比した、一般的な「人間」という意味も含んでいます。

【いさ心も知らず】
「いさ」は下に打消しの語をともなって、「さあどうだろうか、…ない」という意味になります。「心も知らず」は「気持ちも分からない」という意味ですので、全体では「さあどうだろうか、あなたの気持ちも分かったものではない」という意味になります。「も」は強意の係助詞です。

【ふるさとは】
「ふるさと」には、「古い里」「古くからなじんだ場所」「生まれた土地」「古都」などの意味があり、ここでは「古くから慣れ親しんだ場所」という意味になります。

【花ぞ】
「花」は普通桜を指しますが、ここでは「梅」です。「人の心」と「ふるさとの花」が対置されています。

【昔の香ににほひける】
「にほひ」は動詞「にほふ」の連用形で「花が美しく咲く」という意味です。色彩の華やかさを表してる言葉でしたが、平安時代になると視覚だけでなく「香り」といった嗅覚も含まれるようになりました。


●作者

紀貫之(きのつらゆき。868?~945)

平安時代最大の歌人で、「古今集」の中心的な撰者であり、三十六歌仙の一人です。勅撰集には443首選ばれており、定家に次いで第2位でもあります。古今集の歌論として有名なひらがなの序文「仮名序(かなじょ)」と、我が国最初の日記文学「土佐日記」の作者として非常に有名であり、教科書にも取り上げられているのはご存じでしょう。

役人で大内記、土佐守などを歴任し、従五位上・木工権頭(もくのごんのかみ)になりました。土佐日記は、土佐守の任を終えて都に帰るときの旅の様子を1人の女性に託してひらがなで書かれた日記です。


●鑑賞

さて、この歌は古今集に収められたものですが、詞書に「初瀬に詣(まう)づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、程へて後にいたれりければ、かの家の主人(あるじ)、『かく定かになむ宿りは在る』と言ひ出して侍(はべ)りければ、そこに立てりける梅の花を折りて詠める」とあります。すなわち、昔は初瀬の長谷(はせ)寺へお参りに行くたびに泊まっていた宿にしばらく行かなくなっていて、何年も後に訪れてみたら、宿の主人が「このように確かに、お宿は昔のままでございますというのに」(あなたは心変わりされて、ずいぶんおいでにならなかったですね)と言った。そこで、その辺りの梅の枝をひとさし折ってこの歌を詠んだ、ということですね。

あなたの方はどうだったんです? ちゃんとずっと覚えていていただいてたんでしょうかね。昔よく訪れたこの里は、昔ながらに梅の良い香りを漂わせていますのに。

紀貫之は、「土佐日記」で歴史上はじめて日記文学を書いたり、古今集を先頭に立って編集し、歌論として有名な「仮名序」を書くなど、平安時代を代表する「大文豪」です。その彼が久々に訪れた宿。まあ言うなれば、昔なじみだったホテルを久々に訪れた老いた大俳優が支配人から「ホテルは昔のままでございますよ。あなたはお変わりになられたようですが」などと言われたので、花びんのバラの花を一本抜いて、「君も私のことなんて忘れてたんじゃないかね。世間ってものは忘れっぽいものさ。花びんのバラはずっと昔のままだけどね」なんて小粋に切り返した、といったところでしょうか。この歌に紀貫之の機転と粋でダンディな雰囲気を感じてしまうのは、私だけでしょうか。もちろん宿の主人が女性で、遠い昔の恋愛を暗示している、と考えることもできます。どちらにせよ、紀貫之が世間と人生を語る一首といってよいでしょうか。

この歌の舞台は「初瀬の長谷(はせ)寺」、現在の奈良県櫻井市初瀬町の長谷寺です。近鉄大阪線長谷寺駅下車、徒歩で約20分の距離です。お寺の中には樹齢100年を越える巨大なしだれ桜がありますが、このメルマガが届く頃にはぎりぎりまだ見られるかもしれません。4月下旬からは150株7000本のボタンが咲き誇ります。桜井は日本書紀や古事記などによく登場する、文字通りの「まほろば」です。万葉の歌碑があちこちに点在しており、散策にはもってこいです。ぜひ一度訪れてみてくださいね。