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はじめに【百人一首の世界への誘い】
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日本人には、非常になじみ深い「小倉百人一首」。
今でもお正月になると、かるた遊びとしてお茶の間に登場しま
すし、学校の国語の授業でもよく取り上げられます。
皆さんも一度や二度は「天の原振りさけ見れば」とか、「長々
し夜を一人かも寝む」などの歌を口にしたことがあるのではない
でしょうか。
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この「百人一首」、実は和歌が生まれた万葉の昔からの大歌人
たち100人の代表的な歌を1人に1首ずつ集めて作ったもの。
今で言うなら、さながら「和歌版・オールタイム・ベスト100」
といったところでしょうか。
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百人一首を作ったのは、平安〜鎌倉時代の代表的歌人である、
藤原定家[ふじわらのていか(または、さだいえ)。1162(応保
2)年〜1241(仁治2)年]だと言われます。定家は、平安時代
末期の大歌人藤原俊成の息子として生まれ、時の上皇後鳥羽院の
寵愛を受けて有名な「新古今和歌集」を編纂しました。
その後、定家は院から勘当を受け、翌年の承久の乱による院の
失脚で復活するなど波乱の生涯を送りますが、1235(文暦2)年
に宇都宮頼綱の依頼で、嵯峨中院の小倉山荘の障子色紙を染筆す
ることになります。
そこで、書き送ったのが百人一首の元になる「百人秀歌」でし
た。それが後に若干改められ、後世の人の手によって刊行されて
「小倉百人一首」として広く親しまれるようになったといいます。
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藤原定家は歌人としても天才でしたが、選者としての腕も確か
でした。それは、小倉百人一首が800年近い時を経て、未だに人々
の口の端に上ることでも証明されています。
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ここでは、「小倉百人一首」の世界をご紹介し、読者の皆様とと
もに、古の歌を味わうことを目的にしております。
どうぞご愛読いただき、古典をひもとく一助にしていただければ
幸いです。
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