洗心言

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平成十五年 初夏の号
伝承の花

椿   【 凌霄花(のうぜんかずら) 】

「霄」は遥か高き空を意味し、天空をも凌ぐ花とたとえられた凌霄花。天に向かって昇りゆき、鮮やかな橙色の花を高々と開かせる様は、立身出世の象徴として尊ばれてきました。



自然の恩恵 共存の知恵

 新緑の季節を迎えると、津々浦々の水辺では、葦が青々と生い茂りはじめます。はるかいにしえに「豊葦原瑞穂(とよあしはらみずほ)の国」と喩えられた日本。葦は黄金色に輝き実る稲穂とともに、わが国の豊かな自然風土の象徴として連綿と受け継がれてきたのです。
  人と自然とがひとつになることで生まれ出ずる、本当の豊かさをご紹介する「自然の恩恵 共存の知恵」。今回は、葦原が映しだしてきた自然との理想的な共生について話を進めてまいります。

人に守られ続けてきた
天然の浄化装置、葦原。

【心に豊かな風情をもたらすその眺め】

 難波潟(なにはがた)短き蘆(あし)のふしの間も逢はでこの世を過ぐしてよとや
  (大意:蘆の節と節との間、それほど短い間も逢わないでこの世を過ごせと、あなたはおっしゃるのですか。)
  『小倉百人一首』に撰されたこの恋歌は、平安時代の女流歌人で「三十六歌仙」の一人にも数えられた伊勢が詠んだ一首。蘆(葦)はイネ科の多年草で、湖沼や河川の水辺、または淡水と海水とが出会う汽水域の水辺に根ざします。草は高さ三〜四メートルほどに育ち、大群落をつくります。
  歌に詠まれた難波潟はこんにちの大阪湾の一部で、かつては葦が生い茂る景勝地として貴族たちがこぞって集った地。きらめく海原を背景に、風にたなびく葦原の眺めは、人々の心に豊かな風情をもたらしたのでしょう。

【水を清め、小さな生命を育む葦の力】

 葦はまた、美しい風景をかたちづくるだけに終わらず、自然環境にかけがえのない恵みを与えてきました。まず、赤潮やアオコの発生の原因となる水中の窒素やリンを吸収し、水質を浄化する働きがあります。つぎに打ち寄せる波の力を弱め、さらに地下茎の踏ん張りによって岸辺の侵食を防ぐ役割を果たしています。そしてなによりも、そこは野鳥たちが疲れた羽根を休め、小魚たちが産卵し、稚魚を育てるのにまたとない住み処であり続けてきたのです。

【人と葦原と生態系との理想的な関係】

 夏の盛り、青々と茂った葦は秋の声を聞くと黄金色に輝きはじめ、やがて花をつけます。そして雪が降り積もるころ、津々浦々の葦原では枯草を刈り、その刈り跡を燃やす「火入れ」が行われます。新しい芽を活き活きと吹かせ、再び青々と生い茂らせるために人々は凍てつく寒さを厭うことなく、葦原の世話を続けてきたのです。刈り取られた葦は捨てられることなく、葦簀(よしず)や衝立(ついたて)、障子などに細工され、暮らしのなかで活かされました。しかし残念なことに、開発や水質汚染などによりわが国の葦原はここしばらくの間に大きく減ってしまったと聞きます。
 人間に守られてきた葦原と、葦原に守られてきた生態系。はるかいにしえより、日本の風土を支えてきた共生のかたちを見つめると、自然との心豊かな関わり方を教えられます。そこから得た知恵を上手に活かしていくことが、人と自然の明日に、大切といえないでしょうか。



平安の遊・藝

石投(いしなご)
 石をひとつ高く放り上げて、
 それが 落ちてこないうちに下に置いた石をひとつ拾い、
 落ちてきた石を受け止める遊び、石投。
  こんにちお手玉として受け継がれている
  遊びのはじまりを訪ねてみました。

【聖徳太子が好んで遊んだ石名取玉(いしなとりたま)】

 石投のルーツとなる遊具が日本にもたらされたのは奈良時代、中国からのことでした。十六個の美しい水晶玉からなるその遊具は石名取玉と呼ばれ、高貴な人々の間で遊ばれていたそうです。聖徳太子ゆかりの古刹、奈良は斑鳩(いかるが)の法隆寺には石名取玉が宝物として受け継がれ、現在では重要文化財に指定されているほどです。一説によると、太子も好んで遊びに興じていたといわれています。

【いしなごが転じておしなごが誕生】

 そして平安時代、玉に石を用いるようになった遊びは石投とその名を変え、大宮人の間で人気を博すとともに、庶民にも楽しまれたと伝えられます。
  その後、石投は貝殻などでも遊ばれるようになりますが、大きな変化が生じるのは江戸時代に入ってからのこと。石や貝殻にかわって、小さな布袋に粟やひえ、小豆などを入れたお手玉が用いられるようになったのです。ちなみにお手玉のことを「おしなご」ともいいますが、これは「いしなご」が転じて生まれた言葉だとか。

【落ちる石に世をはかないだ西行(さいぎょう)】

さて、『小倉百人一首』にも歌が撰された西行法師は、
 いしなごの玉の落ちくるほどなさに過くる月日はかはりやはする
という歌を遺(のこ)しています。その意味はおよそ、放り上げた石が落ちるのと同じぐらい早く世は移り変わる、といったところ。西行法師といえば、永遠に不変なものはないという考え、すなわち無常観とともに語られることの多い人物であり、この歌も世のはかなさを詠んだ一首といえるでしょう。あらゆるものが加速的に変化する昨今、法師の思いは私たちの心に染み入るかのようです。しかし世がどう移り変わろうとも、大切なのは自分らしく一生懸命に生きること。法師が最も伝えたかったのは、それだったのかもしれません。




百人一首逍遙

 『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
 今回は茨城、筑波を訪ねました。




筑波嶺(つくばね)の
 峰より落つる
  みなの川

     恋ぞ積もりて
      淵となりぬる

             陽成院



坂上是則
筑波嶺からしたたる滴が、みなの川の淵となるように、恋が積もりに積もりこんなにも深くなりました。

 歌に詠まれた筑波嶺は、常陸国(現在の茨城県)にそびえる筑波山のこと。八七六メートルの標高を誇る秀麗な佇まいは古くから富士山と並ぶ東国の名山と称され、こんにちでは「日本百名山」のひとつに数えられています。
 奈良時代の初期に編まれた郷土史『常陸風土記(ひたちのふどき)』をひもとくと、筑波山は多数の男女が出会いを求めて集まり、歌を詠み唄うロマンチックな行事、歌垣(うたがき)の場として広く知られていたことが伺い知れます。『万葉集』にもここでの歌垣を思わせる歌が数多く収められており、そのなかには陽成院がヒントにした一首があるといわれています。
 ちなみに筑波山は山頂がふたつの峰に分れており、西側は男体山(なんたいさん)、東側は女体山(にょたいさん)と呼ばれているのだとか。その頂から麓を見下ろすと、日本で二番目に大きな湖、霞ヶ浦が広がります。歌に詠まれたみなの川は実在する男女川(みなのがわ)のことで、峰を下り降りた後に桜川と合流して霞ヶ浦に注いでゆきます。



 この一首は、陽成院(ようぜいいん)が光孝(こうこう)天皇の第三皇女、綏子内親王(すいしないしんのう)に贈った歌でした。恋心を切々と綴った歌が功を奏したのかどうかは定かではありませんが、院の思いは実り、内親王を晴れて妃として迎える日がやってきます。しかし運命とはいたずらなもので、内親王は院より二十数年も早くこの世を去ってしまったそうです。
 実は内親王は院の父のいとこにあたり、しかも年上で、院は内親王を幼いころから姉のように慕っていたといいます。それがいつしか恋心へと変わっていったのでしょうが、しかし本来なら許されることのない愛。それゆえ陽成院の思いは、いっそう熱く燃え上がったのかもしれません



小倉山荘 店主より

たとえ明日世界が滅びようとも今日、私は林檎の木を植える
 
 北の国では、可憐な林檎の花が咲き誇る頃となりました。待ちわびられた、あたたかな季節の到来を告げる花の心にふれたとき、ふと思い出されたのが標題に掲げた言葉です。
 絶望のなかにも希望を見出し、自らに与えられた人生の役割を見つめ直し、それを全うするために勇気をもって生きる。ドイツに受け継がれてきた至言を私はこのように理解しております。
 今というときは、将来のためにあるもの。精一杯に生きた今は、きっと未来を豊かに満たしてくれるはずです。
 来るべき明日を悲観するより、今日という日を一生懸命に生きることの大切さを、あらためて胸に刻みたいと思います。そして、時代がどのように移り変わろうとも、いつもと変わることなく美味しいお菓子づくりに精進してまいります。

報恩感謝 主人 山本雄吉