洗心言

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平成二十七年 新春の号

花鳥風月雨雪

花鳥風月雨雪【雪】
  【雪】

春の花、秋の月とともに、風流を愛でる日本人に好まれてきた雪。平安貴族は雪見を、冬の風物として愉しみました。


平安人の生き方に学ぶ

日本の夜明けであり、激動する世の中で、さまざまな思想や文化が生み出された平安時代。その時代をかたちづくった先人の足跡には、いまを豊かに生きる手掛かりがあります。
新春の「平安人の生き方に学ぶ」は、日本独自の国風文化が華開くきっかけをつくった、菅原道真の生き様をひもときます。


「雅な華を咲かせる種をまいた菅原道真」


百花に先駆け、梅が咲く季節となりました。梅を題材とした歌に、こんな一首があります。

 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 菅原道真が九州に向かう際、自邸の庭に咲く梅との別れを惜しみ、詠んだ歌。その別れは都との離別でもありました。右大臣として、宇多天皇を中心とする国づくりを進めた道真。その手腕を恐れた左大臣、藤原時平らによって無実の罪を着せられ、太宰府に左遷されてしまうのです。
 以後一度も京に戻ることなく、二年後に他界。五十八歳の人生は失意のなかで閉じられましたが、官人として、文人として、類い稀なる才能を遺憾なく発揮した道真は、後の日本文化に多大な影響を与える功績をいくつも残しました。そのひとつが遣唐使の停止です。

 七世紀のはじめからつづいた遣唐使は、当時の先進国である唐から文化や制度をもたらすことで日本の発展に寄与してきました。しかし次第に唐が衰退しはじめ、それと同時に国内の文人たちのあいだで自らのやり方で文化を築こうという機運が高まります。
時代がそのような動きを見せていた寛平(かんぴょう)六年(八九四年)、自らも遣唐大使であった道真は遣唐使の停止を決定。唐との交流をあえて制限したこの決断を機に、文化の国風化が加速します。
たとえば、かな文字の発明によって国文学が発展し、『源氏物語』をはじめとする物語や『枕草子』といった随筆が誕生。絵画においては柔らかい筆致と雅な色使いが特徴の大和絵が興り、建築では平等院鳳凰堂に代表される寝殿造りが流行。優美で華やかな日本独自の文化は、やがて国風文化と呼ばれるようになりました。

 唐から学ぶべきことは学んだのだから、これからはその蓄積を生かして、自分たちの文化を創造しよう。道真の決断を後押ししたのは、唐を否定するのではなく、尊敬すべきことは尊敬しながら文化的な自立をめざす気概だったのかもしれません。いくら日本独自の文化といえども、その土台には、数百年にわたって取り入れてきた大陸の文化があったのです。
国風文化の華を咲かせる種をまいた道真は今年、生誕千百七十年を迎えます。この春は馥郁(ふくいく)と香る梅に、その功績を偲んでみてはいかがでしょうか。



京都おちこち

京都のおちこち(あちらこちら)にある、変わった地名などをご紹介する「京都おちこち」。
今回は、京都の中心にひっそりとつづく、不明門通の名前の由来をひもときます。


「御所への遠慮から生まれた不明門通」


 京都随一のオフィス街、四条烏丸。そこから南へ少し下がった高辻通と松原通のちょうど間あたりで、東に入ったところに因幡堂(いなばどう)があります。近代的なビルやマンションと、昔ながらの家並みが混在する地にひっそり佇む寺は平等寺ともいい、平安時代からの歴史を受け継ぐ古刹。こちらの門前からはじまる通りが不明門通です。「あけずのもんどおり」「あけずどおり」と読み方はふた通りありますが、地元の人は大体「あけずどおり」と呼んでいるようです。
 その字を一度見ただけでは、おそらくだれも読むことのできない不明門通。変わった名前の由来は、やはり因幡堂にあります。平安時代の終わりごろ、因幡堂のすぐ南に東五条院という御所が置かれました。天皇が住まわれた御所に遠慮して、因幡堂が門を開けなかったことにちなんでいつしか不明門という言葉が生まれ、それが通りの名前になったのだとか。ところで東五条院は、『平家物語』に描かれた小督局(こごうのつぼね)との悲恋で知られる高倉天皇の御所。天皇は因幡堂とゆかり深く、平等寺の名は天皇によって命名されたものと伝えられています。
 現在は門が開かれた因幡堂前を出発し、ところどころに京町家が残る細い道を行き、大通りの五条通を越えてしばらくすると、上珠数屋町(かみじゅずやちょう)通あたりで烏丸通と合流します。これは明治時代、烏丸通に京都市電のレールを敷く際、東本願寺の門前を通らないよう道そのものを東に寄せたことの名残だそうです。東本願寺に近いため、通り沿いには仏具店が多く建ち並んでいます。
 七条通の手前で烏丸通と別れ、旅館が軒を連ねる石畳風の道を歩くと、そこは不明門通の終点、塩小路通。古都の玄関口、京都駅はもう目の前です。

不明門通を下がると見えてくる京都タワー。誕生して早くも半世紀以上

不明門通を下がると見えてくる京都タワー。誕生して早くも半世紀以上


百人一首 こころ模様

名歌にこめられた「心」に思いを馳せる「百人一首 こころ模様」。
新春の一首は、壬生忠見の第四十一番です。

 恋すてふ
    わが名はまだき
       立ちにけり
    人しれずこそ
       思ひそめしか

                   壬生忠見
壬生忠見
私が恋をしているという噂が、早くも立ってしまったようだ。
誰にも知られないように心ひそかに、あの人を思いはじめたのだが。

 けっして人に知られたくない、秘めたる恋。しかし顔色や振る舞いに、ときめく恋心が浮かんでいたのでしょうか。誰かに想いを寄せていることが、自分の知らないあいだに世間の噂に。そんな、思いがけない出来事への戸惑いが素直につづられた名歌です。
 この歌が詠まれたのは、村上天皇の御前で催された歌合。その席で、「恋」というお題で歌の出来映えを競ったのがつぎの一首でした。
 忍ぶれど色に出でにけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで(誰にも知られまいと、心のなかに隠していた恋心だったが、物思いをしているのかと人に問われるほど、ついに素振りに出てしまったことだ)。
 これは平兼盛(たいらのかねもり)の第四十番。つまり、どちらも『小倉百人一首』に選ばれるほどの名歌。そのため二人の歌をめぐって、つぎのような逸話が残されています。
 判者もその補佐役も、どちらの歌が優れているかを決めかね、主催者である村上天皇の意向を伺うことに。しかし頼みの天皇も判定を下さず、御簾の向こうで小さな声で何かつぶやいているだけ。結局、その何かが「忍ぶれど・・・」というつぶやきだったため、二人の対決は兼盛の勝ちとなりました。負けた忠見は、落胆のあまり程なくして病死してしまったのだとか。
 壬生忠見(みぶのただみ)は平安時代中期を生きた人で、第三十番の作者である壬生忠岑(みぶのただみね)の子どもです。歌才に優れていたことから村上天皇に気に入られ、官職を得たうえに歌で活躍する場も与えられました。生没年は明らかではありませんが、歌合の後も歌人として活躍したという記録があることから、病死したという話しは事実ではないとされています。


 
小倉山荘 店主より

一隅を照らす
 

 あけましておめでとうございます。皆さまにおかれましては良いお年をお迎えのことと、心よりお慶び申し上げます。
 さて、表題は天台宗を開いた伝教大師最澄の言葉です。私には、かつて事業の真の目的や存在意義が見えなくなった時期があります。そのころに出会ったのが、この言葉でした。
 「一隅を照らす」、つまり、それぞれの人が、世の中の小さな一つの隅を照らしているということです。
 その時、私はこう考えました。「ギフトの本質は人々の心をかよわせ、幸せになっていただくことではないだろうか。そうであれば、私がやるべきことは『人々の絆をむすぶ』ことでは・・・」と。
 以来、長岡京小倉山荘では贈り物として喜ばれる菓子づくりを通して、皆さまの絆むすびのお手伝いに力を注いでまいりました。
それは、「私は何をすることで一番社会に貢献できるのか」を真剣に考えた末の結果です。
 平成二十七年、私どもでは万里を照らすより、一隅を照らすことの意味を改めて心に刻み、人と人とを結ぶ菓子づくりにさらなる精進を重ねてまいる所存です。どうぞ本年もより一層のご贔屓を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。



報恩感謝 主人 山本雄吉