洗心言

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平成二十五年 新春の号

平安の色

平安の色【紅梅】
  【紅梅】

春の訪れを告げる色として、平安貴族にたいへん好まれた紅梅。『枕草子』にも「木の花は、濃きも薄きも紅梅」とあります。

歴史をつくった絆物語

人と人とが出逢い、触れあい、ときにぶつかりあいながら固く結ばれてゆく絆。先人が築き上げてきた歴史を振り返ると、そこにはさまざまな絆のかたちを見つけることができます。
今回の「歴史をつくった絆物語」は、平安時代に新しい仏教を興した二人の僧、最澄と空海との絆についてのお話しです。


「この国のかたちを変えた訣別」


 奈良時代の終わりごろ、仏教に新しい芽が生まれようとしていました。富と権力に結びつき、腐敗していた既存の仏教から脱しようと、二人の青年僧が独自の道を歩みはじめたのです。一人は若くして朝廷の僧侶に抜擢され、その後比叡山で修業を重ねていた最澄。もう一人は最澄より七つも若く、大学に入るものの中退し、阿波や土佐で難行苦行を繰り返していた空海。
 二人は奇しくも同じ時に、遣唐使として大陸に向かいます。それは平安時代に入った延暦二三年(八〇四)のことでした。もっとも、新たな仏教を希求し、新たな国づくりを目指す桓武天皇からの信任も厚かった最澄は特別待遇、一方の空海は一介の自費留学生に過ぎませんでした。しかし、この入唐は二人の将来を大きく変えてしまうのです。

 天皇がその帰国を待ちわびていた最澄に、腰を据えて学ぶ時間はありませんでした。唐で最盛を迎えていた天台宗の教えだけを修め、一年足らずで唐を後にします。対する空海は学びたいことを学び、なかでも力を注いだのが密教の学修。空海は、当時最先端といわれた教えの奥義を第一人者から伝授され、さらに正当な継承者としての称号を与えられます。
入唐から二年後。密教を体得し、貴重な文献を携えて帰国した空海は新たな仏教を担う存在となりました。そんな空海に最澄は弟子入りを決意。年長であるにも関わらず、一弟子として密教を学びはじめるのです。空海も真摯に経典をひもとく姿勢に感銘を受け、二人は互いに尊敬しあう間柄となります。ところが、最澄と空海は突然袂を分かってしまうのです。

 貴重な経典の貸し借りで対立が生じた。最澄の弟子が空海に弟子入りしたことで諍いが起きた。訣別の理由には諸説ありますが、決定的だったのは、密教に対する考え方の差ではなかったかといわれています。それから最澄は、比叡山延暦寺を仏教の「総合大学」のように発展させ、そこから浄土宗の法然や浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西など現代の仏教につながる数々の宗派の教祖を輩出。かたや真言密教を確立した空海は、津々浦々まで布教行脚しながらさまざまな社会貢献を行ない、人々の篤い信仰を獲得していきました。
その時、二人が異なる道を歩みはじめていなければ、仏教のあり方だけでなく、この国のかたちは大きく変わっていたかもしれません。


京のかたち

神社仏閣とともに京都のもっとも京都らしい場所、それが花街。
舞妓さんや芸妓さんが行き交う
はんなりとした風情ただよう街並みなど、
古きよき伝統を今に受け継ぐ街が京都にはいくつも残されています。


「華やぎのなかに、歴史と文化が薫る街」


 こんにちの花街は、お茶屋と呼ばれる店で食事などを楽しみながら、舞妓さんや芸妓さんの接待を受けられる場所のこと。現在、京都には五つの花街があり、それぞれ古い歴史を持っています。
 八坂神社や建仁寺にほど近い「祇園甲部」は、江戸時代のはじめごろに八坂神社の門前町、祇園町として誕生。数百のお茶屋が軒を連ねた街は『忠臣蔵』でおなじみの大石内蔵助や、幕末の志士たちに愛されました。「祇園東」は明治時代に祇園甲部と分かれ、かつて祇園乙部と呼ばれた花街です。
 四条通と五条通のあいだ、鴨川の東側につづくのは「宮川町」。ここは歌舞伎の祖である、出雲阿国とゆかりの深いことで知られています。四条通の北、鴨川の西側の花街は「先斗町」。江戸初期に開かれた、風変わりな街の名はポルトガル語の「PONT(先端)」に由来するといわれています。
 ここまでご紹介した四つは四条通や鴨川付近の花街ですが、「上七軒」は西陣にある街。発祥は室町時代と五花街のなかでもっとも古く、北野天満宮の修造にともない出された七軒のお茶屋が起源とされています。豊臣秀吉ともゆかりがあり、提灯などに入る五つ団子の紋章は、秀吉に献上した御手洗団子にちなみます。
 それぞれの花街には唄や舞いなどの伝統伎芸が受け継がれ、その真髄を楽しめるのが毎年春に、祇園東では秋に催される「をどり(宮川町はおどり)」。また、料理や着物、建築といった衣食住のすべてにおいて伝統文化が守られているのも花街の魅力といえるでしょう。ところで、京都の花街というとなじみ客と一緒でなければ利用できない、いわゆる「一見さんお断り」が有名です。初対面の人には丁寧なもてなしができないため。料金支払いに関する独特の決まりがあるため。といったように、これにはさまざまな理由があるようですが、誰もが気軽に遊べないところが京都の花街のいちばんの魅力なのかもしれません。

花街にはそれぞれ紋章があり先斗町のそれは千鳥。鴨川の冬の風物詩でもある。

花街にはそれぞれ紋章があり先斗町のそれは千鳥。鴨川の冬の風物詩でもある。


百人一首 四季の趣景

季節感あふれる歌をご紹介する「百人一首 四季の趣景」。
新春の一首は、権中納言定頼の名歌です。

 朝ぼらけ
    宇治の川霧
       たえだえに

    あらはれわたる
       瀬々の網代木

                   権中納言定頼
権中納言定頼
ほのぼのと夜が明けるころ、宇治の川面にたちこめていた 霧がとぎれとぎれに晴れ、その切れ間から川のあちこちの網代木が次々と現われてくることだ。

 網代木とは、網代(竹を編んだ簀の子)を張るために、川の中に立てた杭のこと。鮎の稚魚、氷魚を捕るために仕掛けられた網代は古くから、冬の宇治川の名物として多くの歌に詠まれてきました。万葉の歌人、柿本人麻呂も「もののふの八十氏河の網代木にいざよふ波の行く方しらずも」という歌を残しています。
 琵琶湖から流れ出て山を越え、平等院の近くを流れる宇治川のほとりは、平安時代に貴族が競って別邸を営んだ風光明媚の地。権中納言定頼もここを訪れ、実際に宇治川の朝ぼらけの様子を見てこの歌を詠んだといいます。あたかも水墨画のような趣きを醸す第六十四番は、『小倉百人一首』屈指の叙景歌と評されています。
 宇治川のほとりは、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台としても名高いところ。その作者であり、定頼の少し前の時代を生きたとされる紫式部も、もしかすると同じ光景を愛でていたのかもしれません。

 権中納言定頼は平安時代の中ごろを生きた公家、藤原定頼のことで、父親は第五十五番の作者である大納言公任。歌や書の才に優れ、しかも容姿端麗であった定頼は多くの女性と浮き名を流し、大弐三位(第五十八番の作者)や小式部内侍(第六十番の作者)と関係があったのだとか。
 才気あふれる美男子の定頼は、しかし少々軽率なところがあったようで、みっともない逸話がいくつも伝えられています。小式部内侍をからかおうとして、反対に大恥をかかされてしまった。つまらないことから暴力沙汰を起こして三条天皇の逆鱗に触れ、朝廷の諸儀式をつかさどる行事の役を五年間も干された、など。また、定頼はたいへんな怠け者で、そのことで不興を買うことも多かったそうです。

 
小倉山荘 店主より

円かなること大虚に同じ、欠くることなく余ることなし
 

あけましておめでとうございます。
皆様におかれましては良いお年をお迎えのことと、心よりお慶び申し上げます。
さて、表題は禅の言葉です。大虚とは宇宙の根源を表し、すなわち円は宇宙そのものであり、足りないことも余ることもなく、すべて満たされて完結しているという意味になります。 だからでしょうか、人は円を見ると心が満たされ、自然と穏やかな気持ちになるものです。そして、人は笑顔や人柄、人間関係の理想を円に求めてきました。
ふくよかで、あらゆるものを包みこむようなその姿には、限りない寛容と調和が息づきます。
平成二十五年、私どもは、円に満ちる無限の優しさを菓子というかたちに託して、皆様と大切な方との福縁を支えてまいります。
本年も一層のご贔屓を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。


報恩感謝 主人 山本雄吉