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平成二十四年 晩秋・初冬の号

平安の色

平安の色【濃紅(こいくれない)】
  【濃紅(こいくれない)】

紅花から染められる色。平安時代、紅花が貴重であったことから、紅のなかでも濃厚な濃紅は禁色として珍重されました。

歴史をつくった絆物語

人と人とが出逢い、触れあい、ときにぶつかりあいながら固く結ばれてゆく絆。先人が築き上げてきた歴史を振り返ると、そこにはさまざまな絆のかたちを見つけることができます。
今回の「歴史をつくった絆物語」は、侘茶を大成した千利休と、天下人に登りつめた羽柴秀吉との絆についてのお話しです。


「茶聖と武将の蜜月、そして愛憎」


 千利休が歴史の表舞台に登場するのは、戦国の世の天正(てんしょう)時代。時の天下人、織田信長のお抱え茶人となったことが、そのきっかけでした。当時、武将たちはこぞって茶の湯を楽しんだといいます。貴族のたしなみとされた茶の湯が、武将たちにとって出世の象徴と考えられていたからです。信長は、簡素静寂を重んじる、独自の審美眼をもつ利休に全幅の信頼を寄せ、茶道具選びから茶会の取り仕切りまでの一切を任せました。
 ところが、信長は本能寺の変で非業の死を遂げます。かわって天下取りに乗り出したのが、有力家臣の羽柴秀吉。そして、秀吉は利休に目をつけます。信長の寵愛を受けた利休を取りこむことで、信長の真の後継者であることをライバルたちに誇示しようとしたのです。しかし二人の間には、次第に政治的な思惑を超えたつながりが芽生えていきました。

 こんな逸話があります。利休の家の朝顔がたいそう見事と聞き、秀吉が訪ねたところ、一切の花が切り落とされていました。怒りに打ち震えた秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪の朝顔が。選りすぐりの美しさを愛でてもらおうと、利休は一輪だけを残し、ほかの朝顔をすべて捨ててしまったのです。また、利休が新たに茶室をつくったとき、入口となるにじり口の高さを当初の予定より高くしつらえました。これは、秀吉のまげが当たらないようにという配慮からでした。
そのもてなしにいたく感激した秀吉は、信長に劣らず利休を寵愛。二人は蜜月と呼ぶにふさわしい間柄になります。そして、ともに歴史に残る大茶会を計画します。武士も町人も農民も、茶の湯を好む者はすべて集え。そんな趣旨で催された北野大茶会(きたのだいさのえ)は、茶室では身分はないという利休の思想を秀吉の力で体現したものでした。

 ところが、二人の関係にいつしかほころびが生じはじめました。地味な茶碗を好む利休の美意識を、秀吉が嫌いはじめた。利休の木像が大徳寺山門に祀られたことに、秀吉が激怒した。ある茶会での秀吉の演出を、利休がないがしろにした。その理由には諸説がありますが、秀吉は利休を京都から追放して堺に幽閉します。そして、その数日後に切腹を命じたのです。
一説に、秀吉は利休の好み通りの茶室をつくったといわれています。しかし、完成したときには、秀吉のそばに利休はいませんでした。


京のかたち

歴史と伝統を重んじる古都のイメージが強いせいか、
なにかと保守的と思われがちな京都。
実は先取の気風に富んだところで、その証拠に
日本で初めての「こと」や「もの」がいくつもあるのです。


「未来を見据え、時代に先駆けた京都人の志」


 日本に学校制度が定められたのは明治五年(一八七二)。しかし、京都にはそれより三年も前に近代的な小学校が誕生していました。開校に尽力したのは、町衆と呼ばれる町の人々。中世から、京都は町とその連合体である町組(番組)による自治活動が盛んなところでした。明治維新を迎え、欧米と肩を並べる文明国となるには新しい教育が必要。そう考えた町衆が私財を投じ、自分たちの力でそれぞれの番組に小学校をつくったのです。番組は学区といわれ、番組という単位がなくなり、小学校の統廃合が進んだ現在も、京都のまちなかでは昔ながらの学区にもとづく自治活動が盛んに行われています。
 現代の暮らしになくてはならない電気。その供給に欠かせない水力発電事業も、日本では京都で初めて開始されました。そのカギとなったのが、明治十八年(一八八五)から京都府によって進められた琵琶湖疎水の建設。もともと、琵琶湖疎水は水運や灌漑、動力源となる水車への利用を目的に計画されたものでした。しかし、電気の時代の到来を見据えた技術者が水力発電への活用を追加。そして明治二四年(一八九一)、商業用としては日本初の水力発電所が東山山麓の蹴上(けあげ)に建設され、近代化の灯をともすべく発電を開始したのです。
 その電気を利用して、他都市に先駆けて京都市内を走りはじめたのが民営の市街電車。出発合図の音から、チンチン電車の愛称で人々に親しまれた電車はその後、京都市電に受け継がれていきました。
 このほかにも映画上映や中央卸売市場の開設など、京都には日本初の取り組みがいくつもありますが、博覧会の開催もそのひとつ。これは東京奠都(てんと)により活気を失った京都を、産業面から盛り上げるために挙行されたもので、そのときに余興として来場者の目を楽しませたのが都をどり。雅びやかな花街の催しは、百四十年の時を超えた今も春の風物詩として、京都の人々に愛されています。

重厚なレンガ造りの発電所。
蹴上には、明治四五年に完成した
第二期蹴上発電所が現存する。

重厚なレンガ造りの発電所


百人一首 四季の趣景

季節感あふれる歌をご紹介する「百人一首 四季の趣景」。
晩秋・初冬の一首は、能因法師の名歌です。

 嵐吹く
    三室の山の
       もみぢ葉は

    龍田の川の
       錦なりけり

                        能因法師
能因法師
激しい山風が三室山のもみじを吹き散らしている。
そのもみじ葉が龍田川の一面に浮いている様は、
まるで錦のように美しいものです。

 三室の山は大和国の斑鳩にある神南備(かんなび)山、龍田の川はその東を流れる川。いずれも古くからの紅葉の名所であり、どちらも『万葉集』以来、歌枕として数多くの歌に詠まれてきました。『小倉百人一首』の第十七番、在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)の一首にも龍田川の紅葉が歌われています。
 能因法師(のういんほうし)の第六十九番は、業平の時代から百数十年も後に詠まれたものです。激しい山風に吹き散らされる紅葉を表わした、動的な上の句。そこから錦の織物を連想させる、静的な下の句へと一転させることで、紅葉の美しさを印象的に描写しています。
 もっとも、これは歌合の席で詠まれた一首。一説に、法師は諸国を旅しながら多くの名歌を残したといい、もしかすると錦秋の斑鳩にも足を運んでいたのかもしれません。

 能因法師は平安時代の中ごろを生きた人。大学寮で学んで文章生(もんじょうしょう)となるものの、二十代半ばで出家しました。その後、藤原長能(ふじわらのながとう)のもとで和歌の修業を積みますが、和歌の世界で師匠と弟子の関係を結んだのは、この二人が初めてといわれています。
 旅先で多くの歌を残した法師は、こんな愉快な逸話も残しています。京都にいながら、陸奥国(現在の東北地方)の白河の関を詠んだ法師。しかし、京都でつくったと人にいっては芸がないと思い、しばらく家にこもり日焼けに勤しみました。そして顔が真っ黒になったころ、修業で陸奥に行ったときに詠みましたと、その歌を披露したのだとか。
 今でいうところの「やらせ」ですが、歌そのものは臨場感があると、たいへん好評だったようです。

 
小倉山荘 店主より

喜びを人に分かつと喜びは二倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる
 

 表題は、その類い稀なる人徳で多くの志士を惹きつけ、明治維新を先導した西郷隆盛が座右の銘とした言葉です。西郷は、その意味をおよそつぎのように述べています。「人は天が与える使命に従って生きているのだから、天を敬うべきである。天は誰をも分けへだてなく愛してくれるのだから、天命に従うならば、自分を愛する心で人を愛さなければならない」。
 一説に、西郷は同志とともに自殺を図るものの、自分だけが生き残った恥辱に苦悩した末に、自分は天に生かされたのだと考えるようになったといいます。そして、天命を全うするために残りの人生を捧げ、いかなる苦難にも耐え、無私無欲を貫き、人に仁愛を施すことに心血を注ぎました。
 西郷の生き様に心を寄せ、言葉の意味を深く知ることは容易ではありませんが、日々少しずつでも、「敬天愛人」の境地に近づくことができればと思います。


報恩感謝 主人 山本雄吉