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平成二十四年 初秋の号

平安の色

平安の色【朽葉(くちば)】
  【朽葉(くちば)】

その名の通り、枯れ落ち、朽ちた木々の葉から生まれた色。秋の襲の色目として、平安貴族にこよなく愛されました。

歴史をつくった絆物語

人と人とが出逢い、触れあい、ときにぶつかりあいながら固く結ばれてゆく絆。先人が築き上げてきた歴史を振り返ると、そこにはさまざまな絆のかたちを見つけることができます。
今回の「歴史をつくった絆物語」は、明治維新の礎を築いた二人の志士、坂本龍馬と中岡慎太郎との絆についてのお話しです。


「この国を大きく動かした志士の絆」


 日本の、新しい夜明けとなった明治維新。それは封建的な幕藩体制を倒して新政府を樹立し、近代国家への脱皮を加速させた、日本史上稀に見る大改革でした。その礎となったのが、慶応二年(一八六六)に締結された薩長同盟。互いに雄藩として強大な影響力を誇り、つねに対立をつづけていた薩摩、長州の二つの藩が手を結ぶことにより、倒幕への機運が一気に高まったのです。
 この、歴史を変えた和解劇は、土佐に生まれ育った二人の若き志士の尽力によって成し遂げられました。一人は坂本龍馬、もう一人は中岡慎太郎。激動の時代を全力で駈け抜け、日本を大きく動かした二人のはじめての出逢い。それは龍馬が二十歳、慎太郎が十八歳のころのことでした。

 土佐の勤王の志士、武市半平太(たけちはんぺいた)の道場で出逢った二人はやがて、半平太が結成した土佐勤王党に参加します。ところが龍馬は、自らの意志により土佐を脱藩。土佐藩でも幕府による勤王派への弾圧がはじまると、慎太郎も長州藩に亡命します。しかし、そこでも同志たちが迫害を受けるのを目の当たりにした慎太郎は、力による倒幕を決意。そのためには宿敵である薩摩藩との連携が必要と悟り、無理と危険を承知で両藩の志士のあいだを飛び回ります。
二人が再会したのは慶応元年(一八六五)、京都の薩摩藩邸において。土佐を離れた後、龍馬は幕臣の勝海舟に弟子入りして海軍塾の塾頭を務めながら、神戸海軍操練所の設立に邁進します。ところが、勝が軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)の役職を罷免され、さらに組織自体が反幕府的と見なされたことなどから操練所は閉鎖。行き場を失った龍馬は薩摩藩の西郷隆盛を頼って、京都に移り住んでいたのです。

 慎太郎の意気に打たれた龍馬は、武器調達などを通して薩長和解のきっかけづくりに奮闘。さらに二人は、各地に散らばっていた志士たちの協力を得るために奔走。そして翌年、西郷隆盛と長州藩の桂小五郎により、薩長同盟を結ばせることに成功するのです。
その後時代は急速に動きはじめ、慶応三年(一八六七)に大政奉還が行なわれ、日本に新しい夜明けが到来。しかし同年の暮れ、龍馬と慎太郎は何者かに襲われ、ともに短い生涯を終えてしまいます。それは龍馬が三十一歳、慎太郎が二十九歳のときのことでした。


京のかたち

京都を代表する景観のひとつが、京町家が軒を連ねる街並み。
長き時を経て大切に受け継がれてきた景観には、
現代のものがけっして醸し出すことのできない味わいがあります。
ところで京町家とは、いったいどのような家なのでしょうか。


「都人の知恵が生んだ、合理的な住まいのかたち」


 そもそも京町家とは、京都で発達した主に職住兼用の、町人の家のこと。農家に対して町家といえばわかりやすいでしょうか。京町家の原形は平安時代に生まれ、その後町人の台頭や区割りの変化などに伴いかたちを変え、現存する京町家は江戸から明治にかけての建築といわれています。
 京町家といえば間口が狭くて奥行きの深い、いわゆる「ウナギの寝床」型が有名ですが、そのようなかたちになった理由には諸説があります。たとえば、間口の幅によって税金がかけられたため狭くした。互いの商いのことを考えて、間口を分けあったため狭くなった、など。ともあれ間口の狭い敷地を効率よく利用するため、主な生活空間であった一階部分には典型的な間取りが形作られました。それは、土間に沿って仕事場のミセノマ、茶の間のダイドコ、寝室のオクノマとつづく間取り。もっとも、各部屋の役割は固定されていたわけではありません。ミセノマは祭の際の展示空間、ダイドコは子ども部屋、オクノマは稽古事の場といったように、それぞれいろいろな用途に使われました。また、三部屋は襖で仕切っているだけなので、それを開け放てば大勢の寄り合いなどに利用することもできたのです。
 意匠にも京町家ならではの独自性が見られます。たとえば、格子を見ただけでその家がどのような商売を営んでいるかわかるよう糸屋格子、酒屋格子、麩屋格子、炭屋格子など、業種別のさまざまな格子がつくられました。また、むかしの京都では同業の店が一ヶ所に集まっていたことから、同じ意匠の格子をもつ家が並ぶことで、良好な景観が保たれるというメリットもあったのです。
 このほかにも、開放的な吹き抜け空間、町なかの暮らしに自然の息吹を取り込む坪庭など、京町家の魅力を数えると枚挙にいとまがありません。それらはすべて、限られた条件のなかで合理的かつ快適に暮らそうとした、京都人の知恵から生み出されたものなのです。

京町家の軒先によく見かける鍾馗さん。
もとは中国生まれの神様で、 魔除けとして置かれることが多い。

京町家の軒先によく見かける鍾馗さん。


百人一首 四季の趣景

季節感あふれる歌をご紹介する「百人一首 四季の趣景」。
初秋の一首は、大納言経信の名歌です。

 夕されば
    門田の稲葉
       おとづれて

    蘆のまろ屋に
       秋風ぞ吹く

                   大納言経信
大納言経信
夕暮れになると家の前の稲の葉をさらさらと 音を立てて、それから葦ぶきの粗末な小屋にも
秋風が吹きわたってきます。

 日を追うごとに涼しくなり、肌を優しくなでるようにそよぐ秋風の爽やかさを詠んだ、大納言経信(だいなごんつねのぶ)の第七十一番。題詠歌として知られる一首ですが、詞書に京の西、桂川に近い梅津の山里で催された歌会にて詠んだものと記されていることから、実際に秋の田んぼを目の前にして詠んだ歌と考えられています。
 季節柄、目前の田んぼにはたわわに実った稲が海のように広がっていたのでしょう。夕陽に染まる黄金の稲穂を静かに波打たせ、目にも鮮やかな風景を描いたあと、粗末な小屋のなかに吹き込んでくる風。それは心地よいものでありながら、しかし、どことなく物寂しいもの。そんな秋風の風情を、しみじみと感じさせてくれる名歌です。
 ちなみにこのひとつ前の第七十番、良暹法師(りょうぜんほうし)の一首も秋の夕暮れを詠んだもの。詩情をかき立てるそれは古くから、多くの歌に詠まれた題材でした。

 大納言経信は、平安時代後期を生きた源経信のこと。京の西のはずれ、桂に別荘を営んだことから桂の大納言とも呼ばれました。晩年に大宰権帥(だざいごんのそち)として太宰府に赴任し、当地で八十二歳の生涯を終えました。
 歌人として高い名声を誇り、歌壇の指導者的な役割も果たしたという経信には、つぎのような逸話が残されています。白河天皇が大堰川を行幸したとき、漢詩の舟、管弦の舟、和歌の舟の三つの舟を川に浮かべ、各舟にそれぞれの達人を乗せました。その場に遅れてやってきた経信は、どの舟に乗るかと訊かれて自信満々に「どの舟でも結構です」と答えたのだとか。
 和歌だけでなく、漢詩と管弦にも秀でた経信ならではのエピソードといわれ、同様の逸話をもつ大納言公任(きんとう)(第五十五番の作者)とともに、経信は「三舟(さんしゅう)の才」と呼ばれました。

 
小倉山荘 店主より

燈火親しむの候
 

 秋の日はつるべ落としというように、足早に日が暮れ、しかも夜は涼しく長く、本を読むのに適している時候です。
 「読書離れ」と言われて久しい昨今、言葉が衰え、心の通い合いが失われつつあることに一抹の不安を感じます。読書は語彙を増やし、読む、書く、話すといった伝える力を高め、心を豊かに耕してくれます。感性を育み、想像力を働かさせることで、人生をより深く生きるための力を授けてくれます。
 一冊の本との出逢いが、人生を変えることもあります。失意のとき、不安や緊張のただ中にあるときにも、古今東西の作家たちがときに励まし、ときに叱咤しながら勇気と無限の可能性を引き出してくれる、それが読書の恵みです。
 季節は読書の秋、まさに燈火親しむの候です。この夜長は、テレビやパソコンを消して、しばし読書を楽しんでみてはいかがでしょうか。


報恩感謝 主人 山本雄吉