洗心言

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平成二十二年 盛夏の号
自然の文様

自然の文様【波】
  【波】

力強い躍動感を表わす波。つねに寄せては返し、新しく生まれ変わるように千変万化を繰り返す波の営みは、再生の象徴でもありました。

森羅万象  和のこころ

豊かな自然とはっきりとした四季に恵まれた日本。この国に生まれ、生きることで、日本人は古来より独特の自然観を培い、その感性は「環境の時代」といわれる今、未来を豊かに生きるための知恵として世界的に注目されています。
自然に向けられた先人の眼差しを、季節にあわせてご紹介する「森羅万象 和のこころ」。今回は、海辺の松林を題材に、お話しを進めてまいります。

白砂青松


 冬にも枯れることなく青々と生い茂る姿から、不老長寿やめでたきことの象徴とされる松。その美しさは、はるかいにしえより日本人にこよなく愛され、万葉の歌人、山上憶良(やまのうえのおくら)はつぎの歌を残しています。
 いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴(おおとも)の 御津(みつ)の濱松 待ち恋ひぬらむ
 「遣唐使の任務を終え、一日も早く故国に戻りたい。なぜなら海辺の松林も、私たちの帰りを待ちわびているだろうから」と、憶良は詠みあげています。そして今日も、「白砂青松(はくしゃせいしょう)」という言葉が示す通り、海辺の松林は日本を代表する風景でありつづけています。しかしそれは、ただ美しいだけには終わりません。

 現在、日本に残る海辺の松林の多くは、江戸時代以降に植えられたものといわれています。植林の理由は、人々の暮らしを守ることにありました。
海から吹きすさぶ風。それは大量の砂や塩分を住まいの中まで運び、海辺の生活に不便と危険を及ぼしてきました。農作物にも大きな被害を与えつづけていました。自然がもたらす災いを、どうにかして防ぐことができないか。そんな思いからはじまり、数々の試行錯誤を経て実現した対策。それが高さ十数メートルにまで成長し、しかも塩害に強い特徴に恵まれたクロマツの植林だったのです。

 自然の力を借りることで、自然の脅威から身を守る。それは自然と共生してきた民族ならではの知恵といえるでしょう。防風林として整えられた海辺の松林は、四季折々に趣き深い風景をかたちづくることで人々の目を楽しませ、さらに豊かな生態系を育む基盤の役割も果たしてきました。
ところが昨今、日本各地で「白砂青松」が危機に面していると聞きます。ダム建設により川から土砂が流れてこなくなることで起きる海岸浸食や、開発による海の埋め立てなどがその原因とされています。害虫被害も深刻といいます。
日本人がこよなく愛し、日本人の暮らしに寄り添ってきた美しさを未来に引き継ぐために、知恵をしぼりたいところです。


千二百年の言い伝え

京都の夏の風物詩といえばコンチキチンの祇園祭。
七月一日からひと月にわたって繰り広げられる祭りのクライマックスは
今も昔も豪華絢爛な山鉾の巡行ですが、
先人はそれを見逃したときの悔しさを、ある言葉で表わしました。


「後の祭り」

 祇園祭がはじまったのは、平安時代の貞観(じょうがn)十一年(八六九)。当時、平安京で大流行した疫病を鎮めるために行なわれた祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が、祭りの起源といわれています。
 祭りがいっそう盛大になるのは、町衆たちが祭礼の担い手となった室町時代。彼らが自分たちの町ごとに趣向を凝らした山鉾をつくり、通りを練り歩かせるようになったのです。その後、戦乱などによる中断があったものの、祭りは今日まで連綿とつづいています。
 ところで、現在の山鉾巡行は一日(七月十七日)だけですが、以前は二日に分けて行なわれ、前者は「先祭(さきのまつり)」、後者は「後祭(あとのまつり)」と呼ばれていました。先祭にお目見えする山鉾の多くが豪華絢爛であったのに対して、後祭に登場する山はいずれも小さく簡素だったため、派手で勇壮な先祭に比べると見劣りがしたそうです。
 後祭だけを見た人はがっかりしたかもしれません。「どうして前祭を見なかったんだろう」と悔やんだかもしれません。そこで絶好の機会を逃して手遅れになったり、後悔することを「後の祭り」というようになり、それがいつしかことわざになったのだそうです。とはいえ「後の祭り」の語源には諸説があり、この説が正しいとはいい切れないようです。ちなみに、交通事情などにより山鉾巡行が一日に統合されたのは昭和四十一年(一九六六)のこと。意外にも、そんなに昔の話しではありません。
 現在、後祭の名残をとどめるのが二十四日に行なわれる花傘巡行です。これは花傘を中心とした行列が、八坂神社を出発して四条河原町、京都市役所、寺町通りの四条御旅所(おたびしょ)を経て、ふたたび八坂神社に帰ってくるというもの。威勢のいい子ども神輿や花傘をかぶった女性たち、祇園太鼓、金・銀獅子、芸妓や舞妓をのせた曳き車など、総勢千人からなる行列はとても賑やかで華やか。山鉾巡行を見ず、これだけを見ても、けっして後の祭りにはならないことでしょう。

花傘は山鉾が登場するまでは祭りの中心だったもの。
巡行は午前十時から約二時間行われる
花傘


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、儀同三司母の名歌をご紹介します。

わすれじの
 行末までは
  かたければ

   今日をかぎりの
    命ともがな
     
               儀同三司母
儀同三司母
いつまでも変わらないというあなたの言葉が 遠い将来まで変わらないということは難しいでしょう。
ですからいっそ、こうして会えた今夜限りの命であってほしいと思います。

 儀同三司母(ぎどうさんしのはは)が、夫である藤原道隆(ふじわらのみちたか)に贈ったという第五十四番。名家の出身で関白を務め、しかもたいへんな美男子だったという道隆の愛を受け、妻として迎えられた作者は、傍から見るとたいへん幸せに見えたことでしょう。
 ところが、平安時代の貴族社会は一夫多妻制。夫が何人もの妻を持つことは決して珍しいことではありませんでした。「夫がいつかちがう女性を深く愛するようになり、自分から離れていくかもしれない」。一見幸せそうに見えても、作者の心はそんな不安でいっぱいだったのです。
 「夫の愛を失ってみじめな思いをするくらいなら、熱く愛されているうちに、いっそこのまま死んでしまいたい」。儀同三司母が三十一文字に込めた激しく一途な恋心、それは平安時代を生きたすべての女性に共通する思いだったのかもしれません。

 作者は本名を高階貴子(たかしなのきこ)といい、儀同三司母は死後に授けられた尊称です。そもそも儀同三司とは、太政大臣、左大臣、右大臣と同待遇の准大臣(じゅんだいじん)を意味する言葉。道隆との間にもうけた息子の伊周(これちか)が准大臣に就いたことから、そう呼ばれるようになりました。ちなみに伊周は、『枕草子』に容姿端麗な青年貴族として登場しますが、それは清少納言が女房として仕えた一条天皇の中宮定子(ていし)が、伊周の妹だったためです。
 道隆との間にはさらに、前途有望な隆家(たかいえ)や三条天皇の女御となった原子(げんし)らがおり、作者は関白の妻として栄華を極めます。ところが道隆が四十三歳の若さで亡くなると、一族は没落。そして翌年、作者も病で亡くなります。悲しみに包まれたまま、寂しくこの世を去った作者。歌のように、道隆に愛されたまま死んでいたほうが、あるいは幸せだったのかもしれません。

 
小倉山荘 店主より

「働」とは、人の幸せのために動くこと
 

 「働」という字は、日本独自の国字です。学校では、「働」という字は、「人が動く」ことを意味していると教わりました。
 しかし、働くことは「人の幸せのために動く」ことという解釈を耳にしたとき、思わずうなずいてしまいました。そして、人の幸せのために動く喜びは、すべての人が等しく感じるべきことだとも、その時に改めて思いました。
 しかし私どもの周囲には、働く能力と意思を持ちながらも働く機会を得られないために、人の幸せのために動く喜びを感じたくても感じることができない方も、たくさんいらっしゃいます。
 働けるだけで有り難いと感謝をし、人の幸せのために動く喜びとは何かを考えて、今できることを精一杯やりつづける。その喜びは、人の役に立てたとき、自然と実感できるはずです。



報恩感謝 主人 山本雄吉