【今回の歌】

前大僧正慈円(95番)『千載集』雑中・1137

おほけなくうき世の民(たみ)おほふかな わがたつ杣(そま)墨染(すみぞめ)の袖

フレッシュな小泉首相の登場で、にわかに注目を浴びてきた政治の世界。国会中継をはじめて見た、という人もかなり多かったようです。気宇壮大に日本を改革しようという気概は、これまでの首相にはなかったものですが、さて実際の政策の効果やいかに?

さて、戦で荒んだ平安時代の末期にも、仏法の力によって天下万民を救おうと意気上がる若い僧侶がいました。今回の歌はそんな若い理想を詠んだ一首です。


●現代語訳

身の程もわきまえないことだが、このつらい浮世を生きる民たちを包みこんでやろう。この比叡の山に住みはじめた私の、墨染めの袖で。


●ことば

【おほけなく】
「おほけなし」は「身分分相応だ」とか「恐れ多い」という意味です。慈円は時の関白の息子でしたので高い身分でしたがここでは謙遜の意味で使っています。

【うき世の民】
「うき世」は「憂き世」で、「辛い世の中」を意味しています。慈円の生きた時代は、保元・平治の乱など戦さが続いていました。「民(たみ)」は人民のことです。

【おほふかな】
「(墨染の袖で)覆うことだよ」という意味で、この場合は作者が僧ですので、仏の功徳によって人民を護り救済を祈ることを指しています。「おほふ」は「袖」と縁語です。

【わがたつ杣(そま)に】
「杣」は植林した木を切り出す山「杣山(そまやま)」のことで、ここでは比叡山を指します。「私が入り住むこの山で」という意味になります。この句は、比叡山の根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建てるときに最澄(伝教大師)が詠んだ「…我が立つ杣に冥加あらせ給へ(私が入り立つこの杣山に加護をお与えください」という歌をふまえています。

【墨染の袖】
僧侶の着る墨染めの衣の袖の意味。「墨染」と「住み初め(住みはじめること)」の掛詞で、前の「おほふかな」に続く倒置法を使っています。


●作者

前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん。1155~1225年)

法性寺関白藤原忠通(ふじわらのただみち)の息子。13歳で出家し、37歳の時に天台宗の座主(比叡山延暦寺の僧侶の最高職で首長)となりました。法名が慈円でおくり名が慈鎮(じちん)です。日本初の歴史論集「愚管抄」の作者でもあります。


●鑑賞

身の程知らずのことだけれど、これから比叡山に住んで、開祖最澄(伝教大師)の意志を継ぎ、この荒れてつらい世の中の民を仏法の墨染めの衣で包み込んで救済し、心安らかに暮らさせてやるのだ。それが私の使命なんだろう。

この歌がどういう事情で詠まれたのか、確かなことは定かではありません。けれど「千載集」ができたのが文治4(1188)年ですので、おそらく作者が相当若い、20代の頃に詠まれたものだろうと思われます。若い僧侶が、伝教大師の歌を本歌としてふまえ、自らの使命感と理想を高らかに詠んだ一首。若さにふさわしい歌といえるでしょう。作者慈円は時の関白藤原忠通の息子で、とても位の高い人物です。しかし慈円の生きた時代は、権力を極めた藤原氏の勢力が徐々に弱まり、貴族そのものが衰退して新興勢力である武士の時代へと移り変わっていくその時でした。保元・平治の乱で都が荒れ、1192年にはついに鎌倉幕府が開かれます。激動の時代そのものでした。そう考えると、後々この歌は深い意味を持ってきたことでしょう。慈円は後の1220年に日本で初めて歴史を論じた史論集「愚管抄」を書き上げます。慈円の理想はかなえられたのでしょうか。

この歌の舞台は天台宗の開祖・最澄が開いた比叡山延暦寺。比叡山への行き方はいろいろありますが、車を使うなら奥比叡ドライブウェイを使う方法があります。またバスなら京都駅前から比叡山ドライブバスに乗る方法。電車なら京阪電鉄出町柳駅で叡山電車に乗り換え、八瀬遊園駅からケーブルカーとロープウェイで山頂に上れます。延暦寺の見物は、788年に建てられ1200年の歴史を持つ根本中堂のある東塔エリアをはじめ、西塔、横川の3エリアに渡って歴史ある建物が並んでおり、観光客も数多く訪れます。行事も3月の大護摩供、4月下旬の桜まつり、8月9日からの根本中堂のライトアップや盂蘭盆会、秋の紅葉まつりやスタンプラリーなどさまざま。自然も美しく、精進料理も楽しめますので、ぜひ訪れてみたい観光スポットです。