【今回の歌】

二条院讃岐(92番)『千載集』恋2・760

わが袖は潮干(しほひ)に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし

もうすぐ梅雨入り。雨の多い日が続くので、洗濯をしても衣類がなかなか乾かないので大変でしょう。というわけでこの歌を取り上げたわけではないのですが、百人一首には秋の歌が多く、梅雨時の歌はなかなかありません。そこで恋のせつなさを乾く暇もない袖に託す、この歌に登場してもらった次第です。


●現代語訳

私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のようだ。他人は知らないだろうが、(涙に濡れて)乾く間もない。


●ことば

【潮干に見えぬ沖の石の】
「潮干(しほひ)」は、海の水位が一番低くなる引き潮の状態のことを言います。「見え」は下二段動詞「見ゆ」の未然形、「ぬ」は打ち消しの助動詞「ず」の連体形です。また、「潮干に見えぬ沖の石の」は、次の「人こそ知らね乾く間もなし」の序詞です。

【人こそ知らね】
「他人は知らないけれども」という意味です。「人」は、取り方によっては、「恋人(相手)」とも「世間の人々」ともとれます。「こそ」は強意の係助詞で、「ね」は上の「こそ」の結びで打ち消しの助動詞「ず」の已然形です。「こそ~已然形」で次に続いていくと、逆接の意味になります。

【乾く間もなし】
最初の「わが袖は」を受ける言葉です。「も」は強意の係助詞です。


●作者

二条院讃岐(にじょういんのさぬき。1141~1217年)

源三位頼政(げんさんみよりまさ)の娘。はじめ二条院に仕えた後、藤原重頼(しげより)と結婚しました。その後、後鳥羽天皇の中宮、宜秋門院任子(ぎしゅうもんいんにんし)にも仕えていますが、晩年は以仁王の挙兵事件の関係で出家しました。


●鑑賞

「濡れた袖」というのは古典ではよく使われる表現で、とめどなく流れ落ちる涙を袖で拭うので、「袖が濡れる」「袖が乾かない」などというように、暗喩として使われます。私の衣の袖は、潮が引いた時にさえ海の中に沈んでいて見えない沖の石のように、せつない恋の涙でずっと濡れていて、人は知らないでしょうけど、乾く暇もありません。

まあ、ちょっとオーバーな気もしますけど、沖の石にたとえて「人は知らない密かな恋心」を語る心情には心打たれるものがあります。この歌は、「石に寄する恋」という題で詠んだ「題詠」の歌です。自分の心情を事物にたとえる手法で「寄物陳思(物に寄せて思ひを陳ぶる)」と言います。ところで、和泉式部に
わが袖は 水の下なる石なれや 人に知られで かわく間もなし
という歌があります。今回の歌は和泉式部の歌を基にした「本歌取り」なのですが、「水の下なる石」という表現を見えない遙かな沖の石にした発想が斬新で、そのため作者は「沖の石の讃岐」と呼ばれました。

さて、歌に出てくる「沖の石」は、有名な歌枕である「末の松山」の南方で、池の中にさまざまな奇石が並んでいるのを詠んだものだ、という言い伝えがあります。「末の松山」は、現在の宮城県多賀城市八幡にあり、JR仙石線多賀城駅から徒歩で10分くらいのところです。末松山寶國寺の正面の本堂の後ろに見える小さな丘で、2本の松が植えられています。歌碑「沖の石」は末の松山の道の向かい側にある小さな池で、現在はコンクリートで固められていますが、昔はここまで海だったと言われています。多賀城は陸奥の国府として724年に創建され、平安時代の東北地方の政治・軍事基地でした。東北歴史博物館など見物も多いので史跡巡りにぜひ一度訪れてみましょう。