【今回の歌】

寂蓮法師(87番)『新古今集』秋・491

村雨(むらさめ)露もまだひぬ(まき)の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮れ

つい先ごろ、10月だというのに戦後最大級の台風が通り過ぎていきました。昭和30年代にやってきた同レベルの台風は、1200人もの死者を出したそうです。それに比べて、建物や防災対策が充実してきた現在、サッシの内側で台風情報を観ながら安全な一日を過ごす我々は幸せといえるのかもしれません。

台風の過ぎ去った後、数日はとても良い天気でした。天文観測などでは、雨の後は大気のチリが払われて美しい星空が観られるので歓迎されています。雨にもいろいろな恩恵があるものですね。今回は、雨の後の美しい情景を歌った一首をご紹介します。


●現代語訳

にわか雨が通り過ぎていった後、まだその滴も乾いていない杉や檜の葉の茂りから、霧が白く沸き上がっている秋の夕暮れ時である。


●ことば

【村雨】
にわか雨のことです。

【まだひぬ】
「露」は雨のしずくのことです。「ひぬ」は動詞「干る」の未然形「ひ」に打消しの助動詞「ず」の連体形がついて、「まだ乾かない」という意味になっています。

【真木】
「真」は美称で「良い木材になる木」のことを指しています。杉や檜、槇などの常緑樹全体をこう言います。

【霧立ちのぼる】
「霧」はもやのことですが、春なら「霞(かすみ)」秋なら「霧(きり)と使い分けられます。「立ち上る」は「立つ」と「のぼる」の2つの動詞を合わせたもの。

【秋の夕暮れ】
新古今和歌集の幽玄を表す言葉で、秋は寂しい季節であり夕暮れもメランコリックな時間と考えられていました。


●作者

寂蓮法師(じゃくれんほうし。1139~1202)

俗名(出家する前の名前)は藤原定長(さだなが)。藤原俊成の弟・阿闍梨俊海(あじゃりしゅんかい)の息子で俊成の養子です。30歳過ぎに出家し、全国を渡り歩いた後に嵯峨野に住みました。実力のあった歌人で、新古今和歌集の撰者に命じられますが、病気で没したため撰者とはされていません。


●鑑賞

京都の北山などへ行きますと、雨が降った後、杉木立からもやが立ち上り、うっとりするような幻想的な雰囲気になることがあります。この歌は、にわか雨が降った秋の夕暮れの幻想的な景色を詠んだ一首です。「村雨(むらさめ)」という言葉に日本独特の情緒を感じますね。

よく言われるように、日本は「雨」に関する語彙がとても豊富な国です。それだけ雨が生活に身近だということでしょう。秋に降る雨だけでも、
●秋霖(しゅうりん)・秋にしとしと降り続く雨
●村雨(むらさめ)・秋のにわか雨
●時雨(しぐれ)・晩秋から冬にかけて急に降ったり止んだりする雨のこと
などのいろいろな言葉があります。この歌の中の村雨は、時雨に近いものだという説もあります。にわか雨の後、霧もやの中に立つ杉木立。幻想的な風景で、新古今集のもつ幽玄な世界を見事に表したといえるでしょう。

杉木立を観るなら、京都北区・洛北の中川周辺が有名です。川端康成の名作「古都」の舞台ともなったところで、すらりと伸びた美しい杉木立に秋の雨の情景が堪能できるでしょう。JR京都駅から「周山」行きバスに乗り「北山グリーンガーデン」で下車すると北山杉の里です。