【今回の歌】

小式部内侍(60番)『金葉集』雑上・550

大江(おほえ)いく野の道の(とほ)ければ まだふみもみず天の橋立

前回、権中納言定頼の歌を紹介しましたので、今回は定頼とのエピソードで有名な小式部内侍の歌を紹介しましょう。内侍は、和泉式部の娘。幼いときから天才的な歌才を見せた人ですが、あまりに歌の出来がいいので、母の和泉式部の代作だろうと思われていました。


●現代語訳

大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。


●ことば

【大江(おほえ)山】
丹波国桑田郡(現在の京都府西北部)の山。鬼退治で有名な丹後の大江山とは別。大枝山とも書く。

【いく野の道】
生野は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市字生野)にある地名で、丹後へ行くには生野の里を通りました。この「いく野」には「野を行く」の「行く」を掛けています。

【遠ければ】
遠いので、という意味です。形容詞「遠し」の已然形に、確定の助詞「ば」を付けています。

【まだふみも見ず】
「ふみ」に「踏み」と「文(ふみ)」つまり手紙を掛けた掛詞(かけことば)です。行ったこともないし、母からの手紙もまだ見てはいない、ということを重ねて表しています。さらに、「踏み」は「橋」の縁語でもあります。小式部内侍の華麗なテクニックが伺えるでしょう。

【天の橋立】
丹後国与謝郡(現在の京都府宮津市)にある名勝で、日本三景のひとつです。


●作者

小式部内侍(こしきぶのないし。1000?~1025)

橘道貞(たちばなのみちさだ)の娘で、母親は和泉式部(「和泉式部日記」で有名。百人一首56番に収載)。一条天皇の中宮彰子(しょうし)に仕えました。幼少時から才気を謳われ、この歌をめぐる定頼とのエピソードは非常に有名で、多くの説話集に収められています。若くして逝去しました。


●鑑賞

この歌については、「金葉集」に長い詞書が付けられています。当時、小式部内侍は年少ながら非常に歌が上手いと評判でした。しかし、あまりに上手なので、母の和泉式部が代作しているのではないかと噂が出るほどでした。

ある日小式部内侍は歌合(歌を詠み合う会)に招かれますが、その頃、母の和泉式部は夫とともに丹後国に赴いており不在でした。そこで、同じ歌合に招かれていた藤原定頼が、意地悪にも「歌は如何せさせ給ふ。丹後へ人は遣しけむや。使、未だまうで来ずや」と尋ねました。つまり「歌会で詠む歌はどうするんです? お母様のいらっしゃる丹後の国へは使いは出されましたか? まだ、使いは帰って来ないのですか」と、代作疑惑のことを皮肉ったのです。そこで、小式部内侍が即興で歌ったのがこの歌です。

「大江山へ行く野の道(生野の道)は遠いので、まだ行ったことはありませんわ(手紙なんて見たこともありませんわ)。天の橋立なんて」。生野と行くと掛け、さらに「踏みもみず」と「文も見ず」を掛けた華麗な歌。これを即興で詠むことで、小式部内侍は、これまでの歌が全部自分の才能の賜であり、噂はデタラメであることをずばりと証明してみせたのです。定頼はさだめし驚いたことでしょう。今で言うなら、部長のセクハラ発言を、ずばり自分の才知で切り返してしまった新入女子社員といったところでしょうか。このエピソードは非常に有名になり、後の多くの物語や研究書にも引用されました。内侍が若くして逝去したことが惜しまれます。

この歌で詠まれた「天の橋立」は、日本三景のひとつに数えられる名勝です。現在の京都府宮津市の宮津湾にあり、3.3キロにも及ぶ細長い松林が、湾を塞いで伸びています。この姿から、イザナギノミコトが天にかけた梯子が倒れたとの伝説を生み、平安期から幾多の文人達が訪れました。天橋立を望む笠松公園は、両足を広げて股の間から覗く「股のぞき」の場所として有名です。訪れる場合は、JR山陰線を乗り継ぎ、宮津線天橋立駅で下車します。