【今回の歌】

儀同三司母(54番)『新古今集』恋・1149

忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがな

ついにうっとおしい梅雨に入ってしまいました。しばらくはじめじめしたお天気が続きそうです。最近はエアコンや冷蔵庫がどこの家にもありますので、昔ほどカビなどの心配はないようですが、それでもこの時期、保存には極力気を付けたいものですね。今年は桜の開花が2週間も早かったので、梅雨入りも5月中になったりして、なんて思ったこともありましたが、例年並みだったようです。夏の暑さも例年並みだとか。季節は帳尻合わせに入ったようです。

さて、6月は結婚のシーズン。大きな期待と喜びあふれる花嫁さんがいっぱい誕生する月です。今回は、そんな花嫁の微妙な心を描いた素直な一首をお届けします。


●現代語訳

「いつまでも忘れない」という言葉が、遠い将来まで変わらないというのは難しいでしょう。だから、その言葉を聞いた今日を限りに命が尽きてしまえばいいのに。


●ことば

【忘れじの】
「忘れじ」は、「いつまでもあなたを忘れない(あなたへの愛は変わらない)」という男の言葉です。「じ」は打消しの意志の助動詞です。

【行く末(ゆくすゑ)までは】
「行く末」は「将来」という意味で、全体で「将来いつまでも変わらないことは」という意味になります。

【難(かた)ければ】
「難しいので」という意味です。形容詞「難し」の已然形「難け」に接続助詞「ば」がついて確定条件になります。

【今日(けふ)を限りの】
「今日」は、男が「いつまでも忘れない」と言ってくれたその日を指します。「今日を最後に(死ぬ命)」という意味になります。

【命ともがな】
「と」は結果を表す格助詞、「もがな」は願望を示す終助詞で、「命であればよいなあ」という意味になります。


●作者

儀同三司母(ぎどうさんしのはは。生年不祥~996)

従二位式部卿高階成忠(たかしななりただ)の娘で、名前を貴子(たかこ)と言い、高内侍(こうのないし)とも呼ばれました。中関白藤原道隆(なかのかんぱくふじわらのみちたか)の妻となり、儀同三司伊周(これちか)や一条天皇の后・定子(ていし)を生みました。儀同三司は准大臣のことで、三司(太政大臣・左大臣・右大臣)と儀が同じという意味です。中関白とは、道隆の父・兼家(かねいえ)も弟の道兼(みちかね)も関白になったことによる呼び名です。夫の死後、出家しましたが、伊周が失脚したため、晩年は不遇でした。


●鑑賞

あなたはおっしゃった。「いつまでもあなたのことを忘れないよ」と。けれど将来のことなど分からない。きっとあなたはそのうち私への愛などなくしてしまい、私の許を訪れることもなくなるでしょう。そう思うと、幸せな言葉を聞いた今日の今ここで、命が終わってしまえばいいのにと思うのです。

新古今集に掲載された歌で、詞書には「中関白(藤原道隆)通ひ初め侍りけるころ」とあります。夫であった時の関白・道隆が夫として作者の家に通いはじめた頃に歌った歌です、という意味で、新婚ほやほやの妻が一番幸せな時期に読まれたもののようです。平安時代の貴族の夫婦生活は一夫多妻制で、結婚当初は男性が女性の家へ通ってくるのが慣習でした。これを「通い婚」といいます。2人は新婚ほやほやのアツアツですから、毎日のように夫が通ってくるこの時期はさぞや幸せな日々だったでしょう。だから作者は幸せに心から喜び「今、このまま死んでしまいたい」と歌っているのです。ほほえましい幸せが匂ってくるような歌ですね。

ただ、通い婚は一種残酷な制度で、夫が妻に愛情を感じなくなると家を訪れなくなり、そのまま離婚となります。家に通っている間は贈り物や生活費などが潤沢に妻の家に贈られるのですが、通わなくなるとそれも途絶え、妻の家はさびれて貧しくなっていきます。当時の女性は待つことしかできず、男が来なくなり子もなければ生活もできないかもしれない環境にありました。儀同三司母はそういう将来のことを、幸せの絶頂で感じたのかもしれません。将来に一抹の不安を感じながらも、それを知っているからこそ今の愛に命をかける。百人一首の愛の歌が典雅な中にも激しい情熱を秘めているのは、そういう当時の生活の姿があったからかもしれません。

それにしても、この歌は技巧を好んだ新古今集の中には珍しいほど技巧をこらさず、素直に自分の想いを描いた歌です。後世の歌人たちは、この歌を「くれぐれ優しき歌の体(ほんとうに優しい歌だ)」と評価しました。愛される幸福の中に、将来へのかすかな不安を感じとる。それがこの歌のストレートなメッセージを深いものにしているようです。

この歌の作者・儀同三司母は清少納言らが仕え、女性文芸サロンとして有名な中宮定子の母親です。さぞや華やかな幸せに包まれていたでしょう。しかし夫の死後、息子の伊周が恋した女性の家に夜な夜な通う男を不審に思い、兄弟で待ち伏せして矢を射たところ、それは先の天皇・花山院でした。花山院は女性の妹のもとに通っていたのです。この事件は時の権力者・藤原道長によって謀反の嫌疑を掛けられます。この事件で一族は失脚し、彼女の晩年も不遇でした。栄華を極めた貴族の没落ですが、ある意味歌の不安は当たったのかもしれません。

さて、儀同三司母の息子・伊周が罪を問われて左遷されたのは、太宰府(現在の福岡県太宰府市)でした。太宰府はご存じの通り、学問の神様・菅原道真が流された土地で菅原公を祭った太宰府天満宮で有名です。電車で行かれる場合は、西鉄大牟田線の終点・太宰府駅で下車するとそのまま参道になります。太宰府というと、門から本殿に向かうまでの間にある心字池が有名ですが、6月は心字池と菖蒲池で40種約3万本の花菖蒲が花開きます。小雨に打たれる菖蒲を鑑賞するのもおつかもしれませんね。